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きょうは少し余裕があるので、前回のつづきを。
実は僕は、家ではパソコンに触れないので(だいいち家にはパソコンがない)、このブログも仕事場で仕事の合間に書いています。(ようするにヒマなのかい、という話もある) それはともかく、前回では、ようやくEPCOTにたどりつき、少しその成り立ちについて書きました。そのなかで触れたEPCOTやディズニーと博覧会との関係について。 1964年から65年にかけて、ニューヨークで「ニューヨーク世界博覧会」開催されました。この博覧会は、ちなみに現在、愛知で開催されている「愛・地球博」のように「国際博覧会条約」に基づき博覧会事務局(BIE)に認定・登録されたものではなく、当時のアメリカの国力を世界に示すものとして(いわば勝手に)開催されました。 しかしそうであってもこの博覧会は、のちの博覧会に大きく影響を与えました。 その大きな要因にディズニーがあったのです。 [上の写真は1964-65年ニューヨーク世界博覧会の会場風景] ウォルト・ディズニーは、この博覧会に出展するいくつかの企業パビリオンの展示と演出を手がけることになりました。それは、企業のお金で展示演出技術を開発し、博覧会後に自分のパークに役立てる狙いがあったのでした。 ディズニーがつくったパビリオンは、フォードのパビリオン、GEパビリオン、イリノイ州パビリオン、ペプシのパビリオンの4つです。 フォードパビリオンは、観客をフォードのクルマに乗せ、人類がたどってきた歴史をテーマにしたオーディオアニマトロニクス(オーディオアニマトロニクスについてもまた書きます)のショーの中をめぐる、というもの。 GEパビリオンは、「進歩の国」というテーマで、いくつかに仕切られた円形のステージの周囲を観客席が回って、つぎつぎに違うシーンを見るというもの。 イリノイ州パビリオンは、実物大のリンカーン大統領の精巧なオーディオアニマトロニクスがメインの展示。 そして、ペプシパビリオンはあの「イッツア・スモールワールド」なのです。 どうです、おわかりですよね。もうこの時にテーマパークや博覧会で良く使われる展示演出の手法が開発されていたのです。 それまで、静態的な展示や建築が主体であった博覧会ですが、ディズニーはライド(ライドについてもたぶんまた書きます)に乗って移動してショーを見るとか、オーディオアニマトロニクスを使うとか、客席が回転するとか、つまりアトラクティブな演出手法を導入したわけです。(アトラクティブについては「その3」を読んでみて下さい) 博覧会終了後、ディズニーは各企業に展示演出、つまりアトラクションのディズニーランドへの移設とスポンサードを持ちかけました。これに応じたのがGEとペプシであり、リンカーンの展示も移設されました。 日本のTDLには「イッツア・スモールワールド」以外はつくられませんでしたが、マジックキングダムの歴代大統領の間である「ホール・オブ・プレジデンツ」にはリンカーン大統領がいます。また、確か僕が行った88年当時には、まだGEパビリオンをもとにしたアトラクションがマジックキングダムに存在していて、体験した記憶があります。もう今はないですけど、確かトゥモローランドの「エイリアンとの遭遇」ができるまえの場所にあったと思います。(記憶違いかもしれませんが。またこの「エイリアンとの遭遇」も閉鎖され別のアトラクションに変わったようです) このように、ディズニーは博覧会演出のある部分の原点であり、またその技術を結集してつくられたEPCOTは、80年代以降の日本の博覧会関係者が大いに参考にしたものでした。 僕が最初に行った当時に言われていた笑い話。 そのころ、WDWに“視察”に行く日本人は、なんと背広にネクタイという姿。 パーク関係者に案内されて無事、視察が終わったあと、案内してくれたアメリカ人にこう言われました。 「今回は、日本から遠いWDWによく来て下さいました。とても感謝しています。しかし、ひとつわたしたちの願いを聞いて下さい。それは、もしあなた方が次回、WDWにいらっしゃる時には、半袖、ショートパンツなどのラフな格好でいらして、このパークを“楽しんで”下さい。」 その当時、実際に僕もそんな“視察スタイル”の日本人をWDWで見かけました。 では、そのとき僕はどんな格好かって?それはもちろん、この前の立ち寄り地オーストラリアのサーファーズパラダイスでしっかり調達した、オージー式の派手なお気楽服です。 (つづく) #
by oldwdwfan
| 2005-06-13 16:13
| WDW旅行記1988
いよいよ、WDWへ。僕たちがシャトルバスで向かったのは「EPCOT(そのころはEPCOTセンター)」でした。
前回にも書きましたが、僕がはじめてWDWに行った1988年当時、テーマパークは「マジックキングダム」と「EPCOTセンター」の2つだけでした。 年表的に言うと、アナハイムのディズニーランドが開園したのが1955年。 ウォルト・ディズニーが亡くなったのが1966年。 その後、兄のロイ・ディズニーの手によってオーランドに(正確にはフロリダ州オレンジ郡)ウォルト・ディズニー・ワールド(WDW)の第1期、マジックキングダムが開園したのが1971年。 そして、ロイが亡くなったあとEPCOTセンターが開園したのが1982年です。 東京ディズニーランドは1983年にオープンしています。 ちなみに、WDW内の3番目のテーマパーク「ディズニーMGMスタジオ」がオープンしたのは、僕が最初に行った年の翌年、1989年です。 実は、ウォルト・ディズニーがWDW建設の大きな目的としたのが、EPCOTでした。 アナハイムにディズニーランドをつくったあと、彼には不満とともに次の目標が生まれました。 それは、アナハイムでは敷地の余裕がなかったため、パークと園外との距離が近く、便乗した(つまり彼のテーマや理想や事業とは関係のない)店やホテルができてしまったことが不満だったこと。そして、彼の理想をカタチにした都市をつくりたいという新たな目標でした。 その目標を実現するために、彼はフロリダ州オレンジ郡に広大な土地を購入し、1965年に「Experimental prototype Community of Tomorrow=EPCOT」の建設計画を発表します。これは簡単にいえば、ひとが人間らしく生活するための、未来の実験都市をつくるというものでした。 しかし、彼が66年に亡くなり、その後意志を継いだ兄のロイも亡くなったあと、よくやくWDWの第2期として完成したEPCOTは、ウォルト・ディズニーの考えた実際に人が住む実験都市ではなく、博覧会的な実験性をテーマとしたテーマパークでした。 これは、ウォルトの死後のディズニー自体の事業的な方向性の問題が大きかったのですが、やはりいきなり都市をつくるという冒険は、もうできなかったのでしょう。わずかに本来のEPCOTのエッセンスを残し、そのシティセンター的な意味合いで「EPCOTセンター」という名称にしたのだと思います。 さてさて、1988年当時、既に東京ディズニーランドは開業していて、当然僕も行ったことがあったわけですが、WDWのマジックキングダム=ディズニーランドという理解のもとに(正確には完全にイコールではありませんが)、僕たちの目的はEPCOTというわけだったのです。 また、EPCOTが博覧会的と書きましたが、まさにWDW、いやディズニーと博覧会とは大きなつながりがあったわけで、実は博覧会に多少とも関わりのある僕には、そこに行く必要もあったのでした。 ディズニーと博覧会との関わりについては、次回に書くことにします。 (つづく) #
by oldwdwfan
| 2005-06-13 11:54
| WDW旅行記1988
さてさて、いよいよオーランドに初上陸。
それが朝だったのか、夜だったのかとんと忘れてしまいましたが。(なにしろ記憶力にとぼしいもので。そのくせ記憶に頼って書いているから、これからも記憶が定かではないことがたくさん出てくるかとは思います) オーランド国際空港は、行ったことのある方はご存じと思いますが、早くからボーディングエリアと空港ビルとをモノレールで結んで移動する空港として有名です。 このような形式は、いまではそんなに目新しくはありませんが、88年当時としては、なんてアトラクティブ(attractive:魅惑的、面白い、興味を引く。テーマパークのアトラクションはこのアトラクティブな装置ということです。これからもこのワードが頻発するかもしれません)なんだろうと。 また空港ビル内も、いかにもフロリダにきた。テーマパークの街に着いたという雰囲気が感じられます。 ところで、現在、オーランドのWDW(ウォルトディズニーワールド)リゾートには、4つのテーマパーク、「マジックキングダム」「EPCOT」「ディズニーMGMスタジオ」「アニマルキングダム」をはじめ、2つのウォーターパーク、数多くのリゾート(ホテル群)と盛りだくさんです。 WDW公式サイト(英語) 最近のWDWの、体験に基づいた情報としては、コメントをいただいたfujiwaraさんのホームページをご紹介しておきます。 僕がはじめて行った88年当時には、テーマパークは「マジックキングダム」と「EPCOT」(そのころは「EPCOTセンター」と呼ばれていた。なぜかについてはまた書きます)の2つのテーマパークしかありませんでした。パーク内の直営ホテルも「コンテンポラリー」など、いくつかしか無かったと思います。 その後の充実は目を見張るものがあります。 さて、オーランドに到着した僕たちですが、そのころは直営ホテルに滞在するなど考慮にもなく、予約していたヒルトン(オフィシャルホテル)へと、ようやくたどり着いたのでした。 なかなかパーク内に行けません。しかし今日はもう、書く時間の余裕がないので、またつづく、です。 #
by oldwdwfan
| 2005-06-09 11:15
| WDW旅行記1988
1988年、僕がはじめてフロリダ・オーランド、ウォルトディズニーワールドに行ったときに、なぜ、わざわざオーストラリア経由だったのかというと、その年にブリスベンで開催されていたレジャー博(ブリスベン国際レジャー博覧会)を見に行くという目的もあったからでした。
というよりも、先にレジャー博を視察するという名目の仕事がらみのグループ旅行があり(税金で視察する役人ではありません、あしからず)、それならついでにアメリカまで行ってしまおう!という、なんとも距離感無視、体力無視の旅程にしてしまったのです。 バブル時代のなせるわざでした。 今年は日本で愛知万博が開催されていますが、この時のレジャー博は、愛知万博が「一般博覧会」であるのに対して、85年の筑波での科学技術博覧会と同じく「特別博覧会」というカテゴリーのものです。 特別博は一個のテーマのもとに開く国際博覧会で、85年の日本が“科学技術”という実にそのころの日本らしいテーマなのに、88年のオーストラリアは“レジャー”という、これまた実にオーストラリアらしい、肩の力がゆるく抜けたもの。小ぶりの国際博ながら、なかなかカラフルで楽しいものであったと記憶しています。 というわけで、このブリスベンでのレジャー博を“視察”するため、(なぜか)近くのゴールドコーストに3泊ほど。 そこでほどよく疲労し、いよいよ太平洋を遥か東北方向に飛び越えアメリカへ、となったわけです。 なにしろブリスベンからオーランドまでは、いまフライトサーチで検索しても24時間前後のフライト時間の便が出てきます。 88年当時も当然それぐらいか、それ以上だったと思います。なにしろ機内食が通算4食か5食。乗ったのがシドニー、ハワイ、ロス経由便で、アメリカ入国が深夜のハワイ。 入国手続きと、同じ便がそこから国内線に変わるための待ち時間に、ホノルル空港で夜食も食べたので、もう何回食べたのか記憶にありません。ブロイラー化現象というやつです。 そんなこんだで、膨満感にさいなまれながらようやくオーランド空港へ到着。 (以下つづく) #
by oldwdwfan
| 2005-06-08 14:46
| WDW旅行記1988
ぼくがはじめてフロリダのウォルトディズニーワールドに行ったのは、1988年のこと。
それから通算、6回オーランドには行ってるんだけど、1988年当時はいまからたった17年ほど前とはいえ、まだまだフロリダのディズニーワールドに行ったことのある人は、それほど多くはなかったのです。 はじめてのオーランドへの旅。それも仕事がらみの事情もあり、なんといったんオーストラリアに行って、そこからフロリダに飛ぶという無駄に時間と体力を費やす旅でした。 ということで、その辺からこのブログを始めてみたいと思っています。 なお、仕事の合間に閑なときに書きますので、更新不定期はご容赦を。 #
by oldwdwfan
| 2005-06-07 18:00
| WDW旅行記1988
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