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かつて、1970年代から80年代にかけてウォルトディズニー社のCEO、チェアマンであったカード・ウォーカー氏(E.Cordon“Card”Walker)が、今週月曜、ロサンジェルスで亡くなられたという記事がロイターから配信されました。
カード・ウォーカーは、ウォルト・ディズニーが亡くなり、その後ウォルトの兄であり、ウォルトと共に二人三脚でディズニー社を引っ張ってきたロイ・O・ディズニーが亡くなったあと、ディズニー社の実質的なトップに立った人です。 当ブログ的に言うと、ウォルト・ディズニーの夢であったフロリダプロジェクト=ウォルトディズニーワールド(WDW)を、ウォルトの死のあとまず兄のロイがマジックキングダムをつくり、そのロイの死後、ディズニー兄弟の遺志を引き継いでカード・ウォーカーがEPCOT(当時はEPCOT Center)をつくった、というのがわかりやすいでしょうか。 カード・ウォーカーがディズニー社のCEOになったのは1971年。 1938年に入社したカード・ウォーカーは、最初は週給15ドル95セントの郵便のメッセンジャーから始まり、やがて生粋のディズニー社の社員としてそのトップまで上り詰めました。 この時のチェアマンはウォルトの娘婿であるロン・ミラーで、この時代のディズニー社はこの2人にドン・テータムを加えた3人で運営されており、カード・ウォーカーが実質のリーダーでした。 右に掲げた写真は、ウォルトが亡くなった翌年の1967年当時のニューヨークタイムズの記事で、1970年にはWDW=EPCOTをディズニー社がオープンさせることを伝え、ウォルト時代にイメージされた本来のEPCOTの姿を描いたスケッチが載せられています。 もちろん、多くの住民が住める理想都市としてのEPCOTは実現しませんでしたが、それでも70年に1年遅れて71年にマジックキングダムがオープンし、あとを引き継いだカード・ウォーカーはようやく1982年にEPCOT Centerをオープンさせました。 理想のEPCOTと現実のEPCOTについての話については、以前に当ブログで短期集中連載で書きましたので、もし興味がおありでしたら読んでみて下さい。(「EPCOTの夢と現実(2)」を参照してください) また、日本のディズニーパーク・ファンにとっては、カード・ウォーカーは東京ディズニーランドがオープンした時のディズニー社のトップ(チェアマン)として、忘れてはいけないかも知れません。 WDWの基礎をつくり、そして米国外初のディズニーパークをつくり、とディズニー社のテーマパークの発展には大きく貢献したわけですが、しかしながらディズニー社全体としてのカード・ウォーカー時代は、あまりぱっとしたものではありませんでした。 ウォルトとロイのディズニー兄弟が亡くなったあと、生え抜きのディズニー・マンである彼の役割は、“ウォルトの遺志を引き継ぐ”ことでした。 初期のディズニー社は、その全てをウォルトの創造性が引っ張ってきたものであり、兄のロイはそれを会社経営のなかで成立させる役割を担ってきたわけです。 その2人が亡くなったあとでも、ディズニー社の創造性のすべての基準はまだウォルトにあり、まさにその遺志を生きている者が推し量ってビジネスを行っていく、という状況にあったようです。 その意味でカード・ウォーカーは忠実に“遺志を継ぐ者”だったのでしょう。だからEPCOTも時間がかかり、また内容も変わりましたがオープンにこぎ着けることができたわけです。 しかし、映画スタジオでありエンターテインメント企業としてのディズニー社のビジネスが、それでずっとうまくいく筈がありません。 70年代のディズニー映画はさしたるヒット作もなく、この時代の映画シーンは反体制的な時代性を背景にして、およそディズニーではつくれない暴力的なシーンがあふれる映画や若者受けするような映画がヒットしていました。 やがて、そこからスターウォーズやジョーズのヒットなど、ジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグの時代へと移っていくわけですが、カード・ウォーカー時代のディズニーは、これらの動きに対応することができませんでした。 例えば、1979年にルーカスとスピルバーグが「インディ・ジョーンズ」のプラン(失われたアーク)をディズニー社に提示したとき、利益配分比率の問題からこれを蹴ってしまった、という話もあります(もしこれが成立していたら、ずいぶんと違っていたかもですけど)。 このように、カード・ウォーカー時代は“遺志を継ぐ”ことが終いには足かせとなり、「創造性をもって誰よりも新しい試みを実現すること」というウォルト・ディズニーの“本質的な遺志を継ぐことのできない時代”になってしまいました。 このような映画スタジオの不振に加え、WDWではEPCOT Centerの建設途中に、労働力の不足や設計上の難点など様々な問題が沸き起こり、最終的には予算オーバーに跳ね返り(当初は6億ドル以下が12億ドルにも膨らんだ)、さらにアナハイムのディズニーランドとWDWのマジックキングダムで大規模な改修が必要になるなど、テーマパーク部門でも大きな財政的負担をディズニー社にかけてしまうことになりました。 カード・ウォーカーがチェアマンを辞任した当時は、ディズニー社の経営は四苦八苦の状態であったそうです。 そして、WDWの土地の切り売り話やロイ・E・ディズニー(ロイの息子、ウォルトの甥)のクーデターから、先頃退任したマイケル・アイズナーの時代へと移っていくわけですが、この辺の話は以前にも書きました。 いずれにしても、カード・ウォーカーはディズニー社の“中継ぎ”だったということですが、それでもディズニーパーク好きのファンにとっては、先にも書いたようにWDWとTDLの基礎をつくったということで、評価しても良いのかも知れません。 もし、もっと無茶な、ディズニー兄弟の遺志を否定するような経営者だったら、WDWは荒れ地のままか、広大な住宅地になっていたかも知れませんし、オーランドという地名が日本人にも知られるようにはならなかったでしょうね。 『喜びと希望、そして友情のための場所に来られたみなさん、ようこそ。エプコットは、ウォルト・ディズニーの創造的なヴィジョンによってインスパイアされたものです‥‥‥‥‥‥‥エプコット・センターが、人々を楽しませ、知識を提供し、触発し、そして何よりも、人間の能力に新たなる信念とプライドの力を吹き込み、あらゆる場所の人々に希望を与える世界としてかたちづくられますように』(EPCOT Centerがオープンしたときのカード・ウォーカーの献辞より) ディズニーワールドとディズニー関連のブログを書いている者として、故カード・ウォーカー氏のご冥福をお祈りします。 《WDW旅行記シリーズ》をお読みになりたい方は、メニュー内の『旅行記コンテンツ(目次)』からか、ここから「目次」のページに行くと、各ページごとにお読みいただけます。 もしコメントをいただけるようでしたら、とても励みになります。 人気ブログランキング参加中!!面白く読んでいただけましたら人気blogランキングへワンクリックお願いします。
by oldwdwfan
| 2005-12-01 18:07
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